東京オリンピック やりがい搾取 異様だ
東京オリンピックが開催される2020年に向け、労働の搾取とも思える行動に国や都ならびに自治体が行動している。
あまり政治の話はしたくないがこのオリンピックに潜むボランティア搾取には異を唱えたい。

尚且つ、「スポーツ庁と文科省は、東京五輪のボランティア参加を促すために、全国の大学と高等専門学校に対して東京五輪期間中に授業や試験などを行なわないよう要請した。」
どう考えてみても余りにも異様だ。
無給 無償がボランティアなのか?
国はボランティアと云うのは「無償」「無給」で人の為になる事だけを率先し、且つ最後まで責任を持った人を「ボランティア」で集めたいと考えているようだ。
その証拠に厚生労働省(引用)ではボランティアの定義は下記の様になっている。
ボランティアについて明確な定義を行うことは難しいが、一般的には「自発的な意志に基づき他人や. 社会に貢献する行為」を指してボランティア活動と言われており、活動の性格として、「自主性(主体性)」、. 「社会性(連帯性)」、「無償性(無給性)」等があげられる …
この精神や意味については私は何も言う事はない。被災地に自ら赴き(おもむき)尊いボランティア活動をいつも行動している人に対して私は何も言う権利はない。あるとすれば一言
ありがとうございます 感謝の気持ちだけ
「本当にありがとうございます」と深く頭を下げ感謝の言葉を発するだけだ。それ程、日本のボランティアは凄いと個人的に感じている。
それに被災地に向かう、日本のボランティアは最初から報酬など求めて来ている訳ではない。「ありがとう」を「ありがとう」で返す国民性が故に発生しているボランティアなのだ。
多くのボランティアの方は自分が被災した時に「助けて貰った」「ありがたかった」などから発する「お返し」や「あの時にお世話になった」などと云う日本人独特の精神資質から来ているものだと私は思う。
国民をやすく見すぎている 美辞麗句で取り繕うな
この精神を国が商業ベースである「オリンピック」に、そのまま使って良いのだろうか?あまりにも国民を安っぽく使い、また安っぽく見ている。
日本人の美しい「ありがとう」を「ありがとう」で返す精神を国が安っぽく使うと云うことに無性に腹がたつのだ。
尚且つ「美辞麗句」で色取りをし、あつらい、あたかも「国民がすべき行動」として常識的な言葉で取り繕う事に憤りを感じる。
ましてや「スポーツの祭典 オリンピック」と云えども正確には「商業ベース」な訳だ。そこには利益が発生する企業も人もいる。
しかし何かの行動を起こせば資本主義なのだから「利益」を取る事に私はなんら意義は申さない。いやその考えは資本主義では正常だ。
ボランティア精神とは無茶な要求を受け入れることか?
だからこそ、大切なボランティア精神を踏みにじるかのような体制に怒り心頭になる。
人間「金」が絡むから「責任」が生まれる。この関係は切っても切れない関係性だ。にも関わらず「金無し」「研修有り」「宿泊所無し」「責任重大」とはなんたる事だろうか?
国民の協力無くして成功しないと考えているならば「協力してくれる様に最低限」の事はすべきだ。それか究極「無責任」でも良いから来てくれと云うべきだ。
誰もが生きる為に仕事をしている。そんな層に異を唱えさせない為に学生が標的に今回はされた。今回は学生だったから私は関係無いなど考えてはいけない。次のターゲットは我々だ。
災害時に人が人を助る 優しい気持ち
ボランティアとは「無報酬」という定義なら「責任を求めては絶対に駄目」だ。被災地に赴くボランティアの方に「誰が責任を負わせる」だろうか?
ボランティアを受ける人も、「ボランティアとは言え責任感ある行動」に感動し感謝しいつか自分も「恩返しをしよう」と考える。
しかし一旦「無償の人に責任を求めれば」人は当然ながら以前の様には動いてくれない。いや動けなくなる。「金」の仲介により「責任の所在」を感じさせる事になるからだ!
責任を全うするには少なからず「金」を仲介させる事が必要になる。もちろん被災地に赴くボランティアの人も見えない形で有給を使ったりして当たり前だが「金と時間を」使っている。
使ってはいるが「他人から金」という受注が発生していない為、自分の意思で帰る事も出来る。それがボランティア活動を行う人に対する最低限の「礼儀」だと私は思う。
価値観は人それぞれだが自主的であれば
またこんな形のオリンピックボランティアに自主的に行こうとする人に私が異を唱える事はない。価値観は人それぞれだから、それが自主的であれば何も問題はない。
どんな待遇だろうが自主的であれば全く問題はない。しかし半ば強制的な方針を打ち出し「着飾った言葉と精神と博愛」を学生だけに押しつける事に憤りを感じるのは私だけだろうか?
災害時にボランティアに駆けつけてくれる人が「金が要る!」と言うだろうか?日本人は言わない。それはこの行動は金儲けの為にしている訳ではないからだ。
あくまで無報酬だ。それは人が困っているから出来る行動だ。そして根底に日本人特有の美しい資質が有る為だ。
オリンピックはフェアな精神なはずでは
また一方では「資本主義」を蔓延させ、片方では「博愛精神のもと無償を要求」する。オリンピックとはフェアな精神が信条なはずだが、これほどのダブルスタンダードな精神は聞いた事が無いばかりか呆れる程だ。
先ほど言ったが、オリンピックは商業ベースの祭典だ。そこに災害時と同じように人間をボランティアで「まかなえる」と思っている方がどうかしている。
運営委員会の報酬は高額だから・・・
私はこの事についても実はどうでも良いタイプの人間だ。高額な報酬だから「ダメ」だとも思わないし「無償」であれば良い、とも思わない。
しかし、先ほどから述べている「人の優しさ」「日本人の特有の精神資質」「お互い様」「ありがとう」などの言葉では書き切れぬ程の素晴らしい精神を余りにも軽々しく見ていないか?
改めて申しておくがスポーツ選手になんら落ち度は無い。彼、彼女達は今後も日々の練習をしてその成果を挙げる事に専念すべきだし、それがオリンピック代表選手の役目だ。
学徒動員のような体制
では学生にはどんな役目があるのか?学生は「親の金」であろうが「奨学金」であろうが最終的には自分達の「金」で学業に励んでいる。
結局の所、自分の金で学業を励んで要るわけだから「学業をしなくても良い」選択肢も彼らにはあるはずだし、それを咎めるものは「親」くらいしか居ない。
そう一時、流行した「自己責任」の世界な訳だ。私達が外野からとやかく言う立場ではないはずだ。これを許さないのであれば学徒動員となんら変らない。
そして「学業の本分」を疎かにさせ、あまつさえ「無償・無給・無宿泊所・責任重大でボランティアをしろ」というのだから怒っても当然だ。
商業ベースのお祭り
やりがいだと?そう思うならそう唱えている人が率先すれば良い。日本には「率先垂範」という偉大な言葉がある。TVCMに高額なタレントなどを起用する金があるなら少しは学生にまわせ!
オリンピックは商業ベースのお祭りだ。地域で開催する自主的なお祭りは誰も儲からない。むしろ持ち出しが多い。だけど、だからこそ人は無償で出来る。
地域のお祭りでさえ、誰かが莫大に儲けをだしていて無償で手伝えと言えばだれも手伝わない。そんなの当たり前だ。
素晴らしい国民性を馬鹿にしないでくれ
2011年3月11日東日本大震災が襲った。激甚な被害の中、日本人は耐えた。寡黙に逞しく耐え、且つこの様な大災害でも日本人は暴動を起こさなかった。これは決して「世界では」当たり前で当然の事ではない。
他国はこの光景に驚いていたそうだが他国の評価など私は不必要だ。これは日本人だから自然に出た行動なのだ。
そんな素晴らしい国民性を国は余りにも馬鹿にしすぎている。そして弱い立場の学生を今回はターゲットにした。
しかし次、オリンピック以外で何かある時は私達の番だ。そう考え今回の事は重要視したから記事にした。
こんな風に書いてますが、スキースノーボードの記事もありますのでいろいろ見て行って下さい。
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