目標は与えても目的は教えない 常識は人を規格化する為の隠れ蓑か

投資関係

 

こんにちは「ぐちゃねっと」のGabunomiです。

 

 

人は目標を掲げる事を大事にする。「○○を成し遂げたい」「○○になりたい」など目標は千差万別だが、人は目標を大事にする。

 

しかし目標を掲げるものの、その後にある「何が本当の目的」なのか?を理解していない人が実はとても多い。いや理解ではない「あえて教えられていない」事を理解すべきだ。

 

目標しか伝えず目的は教えない

学校では目的よりも目標を第1に掲げる。学校だけでは無い。企業でもそうだし、学校で教育を受けた「我々大人」もまた「目標」を第1に子供に与えている。

 

確かに教育は大切であり協調性・独自性など勉学を通して確立する事は非常に多い。しかしそうではない場合もまた多い。

 

例えを上げると「教室の皆と仲良くしよう」とか「遅刻は厳禁」などの目標だ。なぜ全員と仲良く成らなければダメなのか?なぜ遅刻はダメなのか?

 

学校の成績にしてもそうだ。「良い成績」を取ろう!と目標は掲げるがその目的はなんだと問い掛けると、親の答えとして帰ってくるのは「将来良い会社に入る為」と答える人が多いと思う。

 

答えは曖昧にしリアルな現実を教えたくない

本当にそれが答えだろうか?いや、その理由は実の所あいまいだ。むしろ「意図的にあいまいにしている」とも言える。

 

当然だろう。本当の目的を教えてしまえば「リアル」な事を子供に教えなければいけなくなる。リアルとはこういう事だ。

 

例)貴方は社会に出たら会社員として全うに働き、朝から晩まで上司の言う事に文句も言わず、どんな辛い事があっても真面目に会社に出て家族を養える、そんな大人になりなさい。

 

極端に言えばこんな事を言わざる得なくなる。あくまで極論だが真実は時に現実よりもつらい事がある。だから綺麗事で済む「目標」のみを掲げたがる。

 

「目標」は偉大で尊重されそして努力の足場にもなるし、目標はとても大事な事だが、余りにも社会に出るまでに「目的」がないがしろにされているとは思わないか?

 

そして、その目標が「単に規格化」する為に仕組まれていたとしたら、どうだろうか?

 

常識とは隠れ蓑?(かくれみの)

常識とは「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」と定義されている。

 

私も常識は大切な事だと思うし他人に迷惑をかけるような生き方はしたくない。ましてや誰かを傷つける事もしたくない。多くの人がそう思っているだろうしそのように行動している。

 

これから書く事はその視点ではない。間違えないでほしい。

 

その昔、中世ヨーロッパでは「天動説」が一般化していた。これは「地球が唯一無為の中心で天(宇宙)が地球を中心に回る」という事を常識として教えていた。キリスト教会が支持した事もありその常識は長い間支持された。

 

その後、1543年にコペルニクスが「地動説」(地球が太陽の周りを回る事)を発表し現在我々の常識となっている。

 

実はキリスト教が地動説を認めたのは1992年の事である。

 

コペルニクスの「地動説」が発表されてから実に449年もの間、キリスト教は「天動説(地球が宇宙の中心)」と教えて来た事は事実である。

 

規格化する為の道具

何が言いたいかと云うと、我々一般人に説く「常識」とは誰かの為のものであり、一般大衆を「規格化」する為に仕組まれているかも知れない?という事を常に頭において欲しいのだ。

 

少しばかりか大きく語弊があるかも知れないが、学校では「制服」を着させ生徒を「規格化」する。社会人は「スーツ・ネクタイ」を着用させ「規格化」する。

 

私もそうだが、やはり「スーツ」などを着ると家着でいるよりも身が引き締まる。こう記事にしていながらも、その範囲を超えられない。

 

少し大げさかもしれないが、ある種「規格化」されていると言っても過言ではないかも知れない。では何故そんな事をする必要があるのだろうか?

 

規格化する事で扱いが非常に楽になる

規格化された果物や野菜は化粧箱に隙間無くきっちりと並べられる。規格化された製品は輸送コストが軽減できる。そうなのだ。規格化されると云う事は扱いが楽になると云うことだ。

 

これは人間にも当てはまる。悲しいがこれが現実だ。ただ人間は商品のようには簡単に使えない。そんな事をすれば反発が起きるし暴動も発生するかもしれない。

 

ではそんな人間の扱いを楽にする為にはどうすれば良いのか?

 

その通りだ。「常識」という規格を与えてやり、自分が学んだ事のように錯覚させてみればどうだろうか?

 

コントロールが簡単になる

我々一般大衆はそんな事は露知らず生活をしているが、もし目的を知られたくない人間がトップにいた場合にはこの様な行動を起こすだろう。トップとは国の事だけを指すのではない。

 

企業に於いても、学校に於いても、サークルに於いても、クラブ活動に於いても、最小の組織である家庭においてもだ。

 

錯覚をさせる事で人の扱いが楽になり、使う側は容易に人をコントロール出来るようになる。

 

これは企業で云えば、一部の上級役員しか「その目的」を知らない場合や知らせたくない場合にも云えるだろう。伝え知らしめる事で価値観による対立は避けたいのが世の常だ。

 

しかし仮に一部の人間がその事に気付いてしまっても大事に至らないように幾重ものルートを用意する。「錯覚を常識」と思う人間が多いほどコントロールは遥かに楽になる。

 

この時に世間には、美辞麗句の「目標」が飛び交うだろう。目的は云わない。伝えない。教えない。「目標」のみを美しい言葉で着飾り推し進める。

 

もしそんな状況に気付いたら気を付けた方が良い。周りを良く見て行動すべきだ。美辞麗句にはいつもその裏に何か「目的」が隠されているのがこの世の常だから。

 

私には見抜けるだろうか? いやまったくもって無理な気がする。それ程常識とは人を枠にはめている。

東京オリンピック ボランティアを無償労働と履き違えるな! 何かがおかしい
一方では「資本主義」を蔓延させ、片方では「博愛精神のもと無償を要求」する。オリンピックとはフェアな精神が信条なはずだが、これほどのダブルスタンダードな精神は聞いた事が無いばかりか呆れる程だ。

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